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[社会]2日遅れて来たS-21の子供たち カンボジアウォッチニュース
2009年02月14日

プノンペンのミアンチェイ区バン=トゥムプン地区に住むブルドーザー操縦手のNorng Chanphal(39)は4日、独立記念塔そばにあるクメール=ルージュ裁判の犠牲者部門事務所を訪れ、民間人当事者として申請しようとした。だが同法廷の規定では、各裁判の10営業日前が申請締め切りとなっているため、元S-21所長ドゥッチ(本名Kaing Guek Eav)の裁判の申請期限は2月2日だった。2日の差で申請は受理されなかった。

「期限に間に合わず、とても、とても残念だ」と同氏は語った。「ドゥッチの裁判の日付は知ったばかりだ」

犠牲者部門のKeat Bophal部門長は「彼は締め切りに間に合わなかったので、民間人当事者としてドゥッチの告訴に加わることはできない」と述べた。「彼が遅れてしまったことは私も非常に残念だ」

カンボジア記録センターのYouk Chhang所長は、Norng Chanphalとその弟Norng Chanlyは、ベトナムに保管されていた記録映像で昨年12月に見つかった、S-21で解放された子供たち5人のうちの2人に違いないと述べた(残り3人のうち1人はすでに死亡を確認)。

「彼に映像を見せる前に、彼に聞き取り調査を行なった。彼の語った内容は非常に正確だった」と同所長。彼の話は1979年1月10日のトゥオル=スラエンの映像と一致していた。「間違いない」

Norng Chanphalは、4日に姿を現すまで30年間、民主カンプチアに関する調査者にも、クメール=ルージュ裁判の職員にも、一度も会ったことがなかった。

1979年1月、プノンペン。その日、8歳のNorng ChanphalはS-21収容所にいた。ポル=ポトの兵たちが、収容所内の建物を回って、収容者たちを次々に目隠ししてトラックへ押し込んでいるのを彼は見た。

「お前たち、トラックに乗れ。行かないといけない」兵たちが彼に声をかける。Chanphalは弟・妹たちと一緒だった。とっさに彼は弟・妹たちを連れて衣服の山に隠れる。不要になった収容者たちの遺した衣服が、建物の裏に大量に積み上げられていた。

一人の兵が子供たちを捜しに来た。衣服の山のそばを、兵は2度、3度と通った。Chanphalは心の中で母を呼んだ。窓から母が、衣服の山に隠れている自分たちを見ていてくれる姿が思い浮かんだ。

トラックは門を出て行った。二度と戻ることはなかった。

無数の砲撃音が聴こえる。怖くてたまらない。ベトナム軍とその同盟カンボジア人勢力がすぐそこまで来ていることを、知るよしもない幼い子供たちはやがて、腹をすかせたまま、眠りに落ちた。

Chanphalら4人が母とともに、コンポン=スプー州のStreng Trayoeung協同組合からプノンペンへ発ったのは、前年1978年の11月か12月だった。その日2台のジープがやって来て、黒服の若いポル=ポト兵たちが母Mom Yovに乗るよう命令した。父Norng Chinは3ヶ月前に逮捕されていた。「夫とともにプノンペンでさらなる教育を受けるよう招待された」のだと兵は母に言う。母は上の5人の子を労働キャンプに残し、下の4人を連れて行くことに決める。運命の分かれ道だった。

プノンペンへは女性もう2人と赤ん坊1人が一緒だった。プノンペンの訓練ステーションに3日いさせられた後、彼らはS-21へ連れて行かれる。写真撮影のおぞましい儀式が彼らに行なわれた。最上階の一室に閉じ込められる。

母が他の2人の女性に言う。「あの人たちが訊くことにただ答えるのよ」そう言った母の声を、Chanphalは覚えている。

次の日、大人と子供は分けられる。女たちは部屋に残され、子供たちは出るように言われる。母は赤ん坊をいつまでも離したがらなかった。「弟・妹の面倒をしっかり見なさい」母にそう言われて、手をぎゅっと握られた。今も思い出す。子供たちはみな外の地べたへ出された。

母は窓ぎわに立ち、じっと子供たちを見おろしている。20分もそうしていただろうか。とても哀しげな母。

「それが母を見た最後だった」Chanphalは語った。子供たちは断末魔の悲鳴を聴いた。

「お前はポル=ポトの子か?」衣服の山の中で眠っていた子供たち4人は、翌朝、AK-47を突きつけられて目をさました。訊いてきたのはポル=ポト派ではないカンボジア人の一人の兵士で、横にベトナム人の兵士が一人いた。

「違います」Chanphalが答える。

「お前は誰か」

「閉じ込められている人の子です」

兵士たちはご飯をくれた。あひるをつぶして食べさせてくれた。Chanphalは、弟のNorng Chanly(5)と一緒に、たらふく食べた。妹のNorng Romduol(3)と、名前のない弟(1)は、死にかけており食べることはできなかった。

Chanphalはすぐに、母を求めて収容所じゅうを探しまわった。殺されたばかりの死体がそこここにある。ベッドの上に、タイプライターの脇に、散乱した書類の下に。彼は書類をめくってもみたが、母ではなかった。

ベトナム人兵士が、弟に「マカラー」と名前をつけてくれた。クメール語で「1月」、子供たちが解放された記念日だ。

その日、およそ2ダースの兵士が収容所へなだれ込み、ドアの鍵を次々に撃ち壊して生き残りを探した。子供たちは銃声を怖がってまた衣服の山に隠れたが、すぐに病院へ送ってもらえた。4人は皆生き残った。だが、母はどこにもいなかった。ChanphalとChanlyはS-21そばの孤児院へ送られた。Romduolとマカラーはモニヴォン通りの孤児院へ送られた。

「孤児院で、お父さん・お母さんが恋しくなると僕はいつも、収容所へ歩いて行ってみたものだ。会えなかったけど」

弟Norng Chanly(35)は今、カンダール州でトラックのドライバーをしている。妹Romduolとマカラーは行方がわからない。別の孤児院へ送られたあと、外国人に養子にもらわれたとのことで、生き別れになってしまった。

2009年02月14日
カンボジアウォッチ編集部

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