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[社会]プノンペンの涙雨、S-21元所長の公判開廷 カンボジアウォッチニュース
2009年02月18日

誰もが開かれないと思っていた裁判が17日朝8時30分、ついにプノンペンで開かれ、被告のカン=ケク=イウ(66)が被告席についた。

同被告はカンボジアの民主カンプチア時代(ポル=ポト政権、いわゆるクメール=ルージュの政権)、12,380人以上をプノンペンのS-21収容所で所長として拷問・虐殺したとして、国際法とカンボジア国内法に基づき、この国際法廷で裁かれる。被告は1999年に逮捕・拘留されて以来、罪状を全面的に認めている。

開会宣言が終わり本題に入ると、プノンペンに突然、時ならぬ雨が降った。無念の犠牲者たちの涙雨だろうか。そんな想いが、カンボジアの歴史の重さを知る取材者の心に去来した。だが、それはついにこの日を迎えた喜びの雨か、それとも改めて流す無念の涙か、殺された本人以外には知るよしもない。とはいえ、乾季の雨の珍しさに気づかない国外からの取材者たちは、この雨に対し特に感慨をいだくはずもなかった。

同法廷が援助の巨額を投じ、世界最大と誇る500席の裁判傍聴席を埋めた市民たちからは、「ああ雨だよ、地面がぬかるんで歩きにくくなって嫌だねえ」との声が聴かれた。傍聴席の席数は民族ごとに定数があり、出席者が割り当てられている。雨はこの時季には珍しくまとまった量降って地面と街を濡らしたあと、15分ほどでやんだが、午後は傍聴席に空席がかなり目立った。なにがなし、歴史の風化を思わされずにはいられない光景だった。

席上、弁護側からは、被告の拘留期間がすでに法定拘留可能期間をはるかに超えているとの指摘があったが、これに対する回答は法廷から出されなかった。

検察側は法廷に対し、40日間の審理と35名の証人陳述を求めている。弁護側は23時間15分(4日半)の審理と13名の証人陳述を求めている。

開廷に先立ち前日16日、プノンペンで記者会見が開かれ、ホーチミン市テレビ(HCMC TV)の元カメラマン ホー=ヴァン=タイ(76)・元ジャーナリスト ディン=フオン(71)と、8歳の時S-21を生きのびたノーン=チャンポル(39)が当時の現場の様子を語った。

ディン=フオンは前日15日にS-21(現トゥオル=スラエン虐殺博物館)を訪れた時の印象にもふれ、「台所以外、何も当時と変わっていない」と語った。「30年前に受けた衝撃の感覚がまざまざとよみがえってきた」

2人はホーチミン市テレビから、クメール=ルージュとの戦争を記録するため戦地へ送られ、ベトナム人民軍第七旅団第四師団の3人のパトロールに同行して、1979年1月6日に放棄されたクメール=ルージュの死のキャンプに足を踏み入れた初の報道人となった。

「部屋に入ると虫が大量にいて、踏みつけて歩かなければならなかった。鉄柱に脚をつながれて死んでいる複数の女性を見た。ポル=ポト政権の残忍さを思い知らされた」とホー=ヴァン=タイ。

彼らは鼻の下に膏油を塗り、撮影を始めた。

「すぐに子供たちの泣き声が聴こえた。左のほうに台所と小さな庭があり、行ってみると衣服とごみの山があって、その下から5人の子供を発見した。子供たちは裸で、身体じゅうを蚊に食われていた。1人は空腹のため死んでしまった」とディン=フオン。

1979年1月10日に撮影されたこの時の映像は、その後しばらくカンボジア国内でベトナム軍によるプロパガンダ映像として用いられており、映っている子供たちを当時見て衝撃を受けたと語るカンボジア人も多い。だがその後映像は埋もれてしまい、あらためて発掘されたのは昨年12月だった。子供たちの存在もいつしか忘れ去られ、S-21の生き残りは大人7人だけとされてきた。ノーン=チャンポル自身、4日に法廷に名乗り出るまで、弟ノーン=チャンリー(35)とともに30年間沈黙を保ちつづけてきた。

8歳のノーン=チャンポルはこの子供5人の最年長だったが、助けられた時は弱って立つことすらできない状態だった、と当時を振り返る。一人の記者が彼に「空になった死のキャンプに残ってお母さんを探していた時、あなたは何日でお母さんの生存を諦めましたか」と質問したとき、ノーン=チャンポルは涕泣し、一斉にフラッシュが焚かれた。

一般のカンボジア人はこうした動きを複雑な想いで見つめている。

ここでは多くの人が、時代時代の政権に迎合して生きてきた。闘えといわれれば闘い、殺せといわれれば殺してきた。ここに住んでいる以上、ポル=ポト派にだって積極的に協力しなければならなかった。そうしなければ自分や家族の身が即座に危なかったからだ。

逆にいえば、今生き残っているカンボジア人は、みな多かれ少なかれ、自分の意志に反してであれ進んでであれ、当時ポル=ポト派に協力した人たちだとも言える。そして平和になった今、人々は何も闘わなかった、誰も殺さなかったかのような顔をして、いろいろな仕事に従事し、殺した側、殺された側、何くわぬ顔でともに暮らしている。それが生きるということだと知っているからだ。

そのような思いを持つ多くのカンボジア人は、国際裁判の世界観である善玉・悪玉説には、とても素直に同感することはできないのが実情だ。ただ戦犯裁判は、何人かをスケープゴートに仕立てることによって、悪かったのは政府高官と軍人だけ、一般民衆は悪くない被害者なのだ、というお墨付きをもたらしてくれる面もあるため、こうした世界観に積極的に反対する動機もまた、見当たらないのである。

数百万人が亡くなったあの時代は確かに不幸もあった、でもポル=ポト派はカンボジアで良いこともした、むしろ国際情勢、強国の論理の狭間で自衛の面もあったのだ、と思っているカンボジア人は今も多い。もちろん家族やごく親しい友人にしか、そういうことは話さない。

カンボジアの現政権は他国に敗戦したわけでもなく、むしろポル=ポト派の残党が率いているのだから、この国際裁判の企画と開廷を許可したフン=セン首相はなみなみならぬ現実主義者であるといわざるをえない。また、そうでなければカンボジアをここまで復興させることは不可能だっただろうと見られる。

2009年02月18日
カンボジアウォッチ編集部

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